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2005年9月11日 (日)

なんとなく、ペシミスティック

社会が変化を迎えるときには、ペシミスティックな論調が幅を利かせるようです。いえ、何も最近の社会情勢に関する論評ではなくて、所謂オイル・ショックの時期の新聞記事を-ある必要があって-集めていたときに痛感したことです。高度経済成長期が終焉を迎え、まさに社会不安が世を覆っていた時代。もうこの世の終わりと言わんばかりの論説記事の多いこと!

その論説記事に見られる共通した現象は、具体的な論拠、データに乏しいか、もしくは、その論拠、データが偏頗的なものであることです。確かに、不安な時代だったのでしょう。しかし、具体的な論拠なしに何かを語るのは「ためにする議論」に過ぎない、と30年前の論説記事は私に時空を超えて教えてくれました。いえ、仕事の内容はそのこととは直接は無関係だったのですが。

さて、そのペシミストの言は見事に外れました。私は思います。ペシミストはリスクを取らない。何故って?予測が的中すれば「言った通りだ...世の中は悪くなるばかりだ...」と悲嘆に暮れます。外れたら「警鐘を鳴らした価値があった」と。オプティミストであればそうは行きません。楽観的な予測を立てるからには、その根拠を明示し、かつ、結果についてはリスクを取らざるを得ないからです。

でも、ペシミストはどこか矛盾しているのですね。何故なら、あれだけ物事を悲観的に考えられるのに、自分の判断にはどうしたことか自信満々だからです。まるで疑っていない。本当にペシミストならば、自らの判断にもどこか懐疑的な精神を持っている筈ではないでしょうか?

ですから、論拠希薄なペシミストは疑ってかかった方が良いと思っています。具体的な論拠が明示されていれば、それを元に自らの考察を深めることも可能ですし、立場が異なったとしても、議論を深めることが可能だからです。懐疑的であることは否定的であることと同義ではありません。なんとなく、ペシミスティックであるよりは、健全に懐疑的であることを、私は選びたいと思っています。

T.D.

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コメント

共感します。

楽観的な悲観主義者が幅を利かせることは、その言説に触れる人にも不自由な思考を強いる危険がありとても容認しがたいです。

健全に懐疑的であるとは、有意な批判を前提にして肯定的な文脈を探すことだと思います。

あられもなく否定を繰り返すことも現状の自堕落な追認に安易に与することも同じく意味のないことのように思われます。

投稿: shooting_stars | 2005年9月17日 (土) 15時42分

shooting_starsさん>

まさにその通りですね。人間、自らが見たいように世界を把握する、と言う傾向は否定できません。それが、精神の均衡に益することもあるのは事実ですので、一概にその傾向を否定するものではありませんが、それは、やはり妥当性および信頼性を持った議論であることとは別論です。

現状をただ追認するのでもなく、ただ悲嘆に暮れるのでもなく、あくまで懐疑的な思索を止めないこと。その中で、力を持つ論が立つものと考えています。

T.D.

投稿: tropical_dandy | 2005年9月17日 (土) 22時09分

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