マキアヴェッリ『君主論』
もの凄い書物なので簡単に纏められる訳がない、のですが、最近、つとに気になって、移動の最中などに読み返していながら、思いついたことなど。
この人、結構な「劇作家」だなぁと思う。この書物自体が君主制国家をめぐる戯曲の趣があります。巷間評価されているように、マキアヴェッリはリアリストであると思います。政治体制においては、気高さよりも現実と理想との乖離があること、そして現実は必ずしも気高くなどないことを明らかに切り取ってみせています。
この辺が「マキアヴェッリズム」と揶揄される根源となっていると思うのですが、人は、気高さと現実の乖離を明るみにされることを好まない。私とて「気高そうに見えるもの」の背後の打算などを鑑みると嫌な印象を持つかもしれません。偽善も嫌だが偽悪も嫌だ、と。
そうは言っても-私は真に至高なるものをどこかで信じていますが-現実はそうではない、と。では、どうするか、その解の一つがこの書の中にはあります。マキアヴェッリは言います。君主は、良くない人となり得ることも学ばなければならない。但し、その言行が不正と見做されるようなことがあってはならない。
それが、君主のVirtu(Virtus)=力である、とマキアヴェッリは言います。その一方で、Fortuna=運命の存在も重視します。適切な修辞が見つからないのですが、抗いようはなく運命はある。私は、そう思います。その中で、どう君主として君主たろうとして振舞うか、マキアヴェッリは力説しているように、私には思えます。
マキアヴェッリはリアリストでもあり理想主義者でもあった、と言うと陳腐になりますが、この陰影がマキアヴェッリをしてマキアヴェッリたらしてているものではないかと思います。この書は、実は、運命によって君主となった者-即ち世襲の地位にある者-にこそ読まれるべきではないかと、思っています。
T.D.
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マキアヴェッリの「君主論」(岩波)を読んで思ったこと
本文が200ページほど、訳注が157ページほど。
訳注は後半にまとめて掲載されていたので、私はまず本文を読んでからその後で訳注をまとめて読むというやり方で読みました。邪道。
「・・・したがって、恐れられ... [続きを読む]
受信: 2005年9月17日 (土) 14時57分

コメント
TB、ありがとうございます。
Virtuについての彼の考察が、私の人生で参考になったなと思っています。
投稿 山崎耕司 | 2005年9月 3日 (土) 02時47分
山崎さん>
コメント有難うございます。Virtuに関する考察、私も大いに感化されました。読み返せば読み返すほど透徹した視点に唸らされます。
T.D.
投稿 tropical_dandy | 2005年9月 3日 (土) 15時09分
はじめまして、トラックバックしていただいていたのに気づかず申し訳ありませんでした。
トラックバックという機能はあまりよく理解しておらず使ったこともないのですが、記事同士の相互リンクと考えてよいのでしょうか。どの程度の関連性が必要でどのような作法があるのか良くわかっていないのですが、こちらからもトラックバックしてみます。
君主論は大学の図書館で借りて読みました。皆さんのようにきっと深くは読めていないと思いますが、感動しました。実際何に感動したのかも良くわかっていないと思うので、大学卒業する頃にもう一度読んでみたいと思います。
そういう意味でもトラックバックしてくださったことに感謝いたします。
投稿 shooting_stars | 2005年9月17日 (土) 14時51分
shooting_starsさん>
いえいえ、トラックバック返し、感謝します。
『君主論』は、きっと、どの年代になって読み返しても、感動があると思います。折に触れて読み返されても、良いかと思いますよ。
T.D.
投稿 tropical__dandy | 2005年9月17日 (土) 15時09分