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2005年7月20日 (水)

江戸と鎌倉、そして上方

いつぞやの(?)歌舞伎談義の続きです。前回は江戸における歌舞伎興行が如何にして成立したかについて軽く触れたかと思います。当然のことながら、江戸は新興都市です。関東において、初めて都市機能を持った幕府というものが成立したのは言うまでもなく、鎌倉です。

その後、歴史の表舞台からは関東は姿を消します。もちろん、鎌倉幕府と江戸幕府ではかなりの時間差が存在しますが、実は、江戸の庶民感情からすると「近しい」ものがあった様子です。それは、定番である「曽我兄弟」物に表れます。

この話、舞台設定は鎌倉なのですが、実際のところ、江戸の地名、風俗その他をそのまま鎌倉に投影しているところが大きい。では、この仇討劇に仮託して、何らかの反体制思想が江戸町人の間に伝播していたかというと、そういうものでもないようです。この辺の機微は非常に難しいのですが、江戸町人のポリティカルな態度というのはかなり洗練度が高い。反体制思想とまではいかないものの、まぁ幕藩体制の鬱積のようなものを芸能に託して娯楽として、鑑賞し、楽しんでいた、と。鬱憤はあるのですが、それを抽象化して憂さ晴らしをする・・・これが「江戸の粋」です。

「粋」と「野暮」に関しては諸説ありますが、ごく簡単に言えば、「露骨さ」を嫌うのが「粋」、その対極にあるのが「野暮」、というのも一つの見方だと思っています。町人の大衆芸能における洗練が存在していたことは特筆されていいことだと思います。もちろん、「曽我兄弟」の話が鎌倉を舞台にしているというのは、江戸を舞台にしては余りに生々しい、そもそもお上が官許しない。その意味で、近代的文脈での「表現の自由」は江戸には存在しませんが、その制約の範囲内で、洗練と言うものが生まれてきた。これを「文化」と呼ぶ。そういうことです。

さて、ではいわゆる上方(京・大坂)ではどうだったか。これはもう歴史が違うわけです。鎌倉を引き合いに出さなくても、表現の素材には事欠かない。新開地の江戸に対して、表現もより精巧で、何より観客の目が肥えていることも重要な要素です。上方と言えば、近松門左衛門、坂田藤十郎ですが、時代だなぁと思わされるのは、近松が「傾城(=遊女)」物を上演するときは「出開帳」がセットとなっていました。「仏教・遊女・演劇」の組み合わせが当時の「常識」からすれば、さほど違和感のあるものではなかったことを意味します。

「遊女・演劇」は当時の、官許の娯楽として存在していたわけですが、「宗教」も現世利益の度合いを高めた、言わば「娯楽」化した存在として立ち現れたのが近世だったのだなぁと、感慨深く考えたりしてしまいます。

T.D.

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コメント

こんにちは。喜八さんのところから辿ってやって参りました。とらです。
そういえば、江戸時代は、金比羅参り、伊勢参り、大山詣でなど、半ば観光旅行のように行う例も多かったと読んだ憶えがあります。
近所の寺社に参詣に行くのも、それで気晴らしをするという要素も大きかったのでしょうね。
思えば、遊郭も、芝居も、寺社も、それぞれ、一種の非日常的空間であったのかもしれないですねえ。

投稿: とら | 2005年7月22日 (金) 15時19分

とらさん>
ようこそおいで下さいました!
確かに「~参り」「~詣」が事実上観光と化したのは江戸時代ですね。「門前町」などには娯楽施設も整備されるなど、確かに非日常的空間となっていたと思います。『傾城仏の原』なども今にして思えばですが・・・凄い演目ですものね。

T.D.

投稿: tropical_dandy | 2005年7月23日 (土) 14時41分

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