2011年10月26日 (水)

落合監督解任について

皆さま、お久しぶりです。またぼちぼち書かせて頂ければと思います。どうか宜しくお願い致します。

諸処の事情はありましょうが、ドラゴンズの黄金時代(8年で4回優勝そして久方ぶりの日本シリーズ制覇)を確立した監督を、このような形で切ってしまうとは・・・田尾放出以来の衝撃でした。

球団社長の負け試合でのガッツボーズの件については、事実的検証ができませんので何とも藪の中ですが、しかし球団初の連覇を足し遂げた監督を解任したことは事実は消えません。

「面白い野球」(=ホームランが多いとか)というのも広いナゴヤドームでは無理筋だと思っています。高木新監督、権藤ヘッドには新味は感じられないですし・・・。まあ、今度のCSと日本シリーズが面白くなってきたのは皮肉なことだと思います。

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2008年8月14日 (木)

Google Street View、雑感。

普通に火事のお宅が写っていたりするんですがこれ、倫理的制約は効かないのか。

A0032944_10362552 日本でも、先進的ネットユーザーの皆さんが、「安心」から「信頼」へとか2価論理で語ろうとされていますが、そう単純なものでもなくて、傾向としてStreet Viewとは無関係にプライヴァシーの権利が重視される傾向にあることは確かであって、それは不可逆的現象として、まずあります。

さて、問題は、GoogleがDon't be evilと誠にごもっともなことをおっしゃるのだけれど、でも何をもってevilとするのかの公準は示していませんよね?

こうした非常にギークな皆さんの集合体がどこまでやらかすのかということは、ジョージ・オーウェル的なビッグ・ブラザー(つまりGooglezonの恐怖の究極形)であり、未来世紀ブラジルなのではないでしょうか?

ピュアな技術志向も、暴走すればそれはそれで怖いのであって、このサーヴィス云々ではなく、こうした価値観とどこまで共存できるものなのかをちょっと考えたりもする今日この頃です。

T.D.

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2008年7月12日 (土)

都知事の不敬

いや、東京オリンピックの支持率は地元的にも半々ですよ。

それを皇太子殿下にご助力いただき、かつ宮内庁の官僚の皆さまを「木っ端役人」呼ばわりするとは、いったいどうしたことでありましょうか。

無粋、ってえのはこのことですね。
選挙で選ばれているからどうしたというのですか。

それなら、東京都知事は代々、徳川宗家が担ったほうがいいのでは、と佐幕派(=右でも左でもない、粋か野暮かだ!)の私としては思うのですが。

T.D.

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2008年7月10日 (木)

復活の雄叫び

長らく(1年余でしょうか)ごぶさたして参りました。

この間、インプットも増え、ヴァージョン・アップした「微熱日記」をお届けできるかと思います。

定期的にログを投げ始めるのはいつのことかといえば、そろそろです。

アテになさらず、いまひと時、お待ち下さい。雄叫びは、もうすぐあがります。

T.D.

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2007年9月21日 (金)

東京オリンピック招致に反対

2016年のオリンピックはシカゴ開催大本命といわれていますが、東京も候補地です。

また東京で開催する意義があるのかもよくわかりませんが、私は都民ではないものの、これは何か有効な税収の使途があるのではと、思ってしまいます。日本オリンピック委員会は名古屋・大阪と二連敗中で政治力はなさげ。オリンピックは5大陸の順に回るので、普通に考えて2016年はシカゴとリオデジャネイロの一騎打ち。運営経験豊富なアメリカと、「未来の大国」が本当の大国になりつつあるブラジルの戦いですね。

で、東京はといえば、政府の援助なし、晴海に都営の新グラウンド構想、8万人収容のメガスタジアム作ってしまって大丈夫なんだろうかと、つい日産スタジアムが頭をよぎります。

実現可能性はかなり薄いのに、すでに結構資金投入しているとのことで、どうなりますやら…。そういえば公営カジノ構想はどうなったんでしょうか?

T.D.

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2007年9月20日 (木)

モウリーニョ監督、チェルシーを去る

これは衝撃ですね。

Photo

モウリーニョ監督のやりたいようにやらせていれば、チェルシーのレジェンドが生まれていたのに…。アブラモヴィッチも結局は金満オーナーということですか。何だかんだいって、ロッベン在籍時代の3トップは面白かったですけどね、批判されるほど詰まらなくはなかった。バラック&シェフチェンコ獲得がボタンの掛け違いの元でしたか。かつてのレアルとでジャブですね。

こうなったらバルサもう復帰しかありませんね。

T.D.

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2007年9月 9日 (日)

農水省は必要か?

大臣が辞め続きということではなく、ここらで明確にすべきではないのだろうか。「食料自給率」または「食料安全保障」の問題について、です。

日本の自給率は40%割れ(カロリーベース)という話がありましたが、実際のところ、日本では99.7%の天然資源は輸入に頼っていて、農業だけを特別扱いする根拠がないようにも感じます。備蓄論の根拠は:

  1. 全世界と全面戦争(第二次世界大戦ですらなかった。当時は闇米氾濫。)
  2. 全世界的凶作(人類史上何度あったのか?)

ですが、何れも論拠としては弱い。市場機構、というコトバが抜け落ちているようにも感じるのです。「格差是正」の美名の下に補助金をばら撒いて、地方は活性化するでしょうか?

むしろ、日本のGDPの1%しかない農林水産省を全面的に解体して、農業に株式会社制度などの「市場原理」を導入すべきではないでしょうか?そうすれば、スケールメリットの享受、生産性向上も見込めるかと想像します。

農産品は、(1)非排除性、(2)非競合性を有しない意味で、「公共財」とはいえないと思われます。むしろ、市場システムと相性が良い産品と考えます。

「食の安全」に関しては、話題の中国産のみならず、国内産だからといって安心できるわけでもありません。ゆえに、この情報の非対称性を回避するために検疫体制の強化は必須です。(こうしたことは、厚生労働省でも可能でしょう。)

上記2.の全世界的大凶作については「日本なら(高値でも)買ってくれる」という関係を農業国と結べることが重要になるかと思います。(これも、外務省に移管しても問題は無いはずです。)

日本が比較劣位にある産業を、補助金・助成金漬けで温存させる理由が、よく呑み込めないのです。「食料安全保障」というのなら、各国にパイプがあった方が、何かの際にヘッジできますし、合理的と思いますが…。

T.D.

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2007年8月28日 (火)

Googleすらなかったとき

新書ブームは、租税濫造な駄本・悪本のマーケットを開拓した意義はあったのだろうか。それはともかく、かなり前に話題をさらった森昭雄・日大教授の『ゲーム脳の恐怖』は「笑って読む本」だと思っていたら、本気にする教育関係者なり、「ヴァーチャルは悪」を断ずる首相の存在で「定説」化しているらしいではないですか。

何故、あの本がトンデモかは多くの人が検証しているのですが、要は、科学的手続きを踏んで集められたデータではないし、まして、その上に結論ありきの(一般受けしそうな)「お望みの結論」ありで、これぞ「と学会」的迷著といえましょう。ゲームの種類にもよるでしょうが、ゲームの利用が脳を活性化させることだってありそうですが…。かつては小説(活字)が、クラシック(音楽)が、ロックが、紙芝居が、新聞が、漫画が、TVが、アニメが、そのようにいわれていました。一億総白痴化@大宅壮一とか。今、ネットもいわれていますし、モバイルもそうかな。

ただ、ネットばりでもゲームばかりでも、活字ばかりでも、そりゃバランスは悪くなるだろうな、とは思う。Google出現後、情報収集のあり方は変わった。昔は、わからない概念を理解するために図書館で調べものして、悶絶したものですけど、今が便利だってことは疑いもしない。

でも、新しいメディアを拒絶するのは、それを受容できない「古い脳」によってなされることは歴史が教えるところ。森昭雄教授は「脳トレ」ブームは批判したんでしたっけ?

『古事記』を語り下ろした稗田阿礼は、全部、その内容を口伝できたからこそ、語り部だったのであって、稗田翁は、これを文字化するなんて、「文字脳」の堕落ここに極まれり、ぷんぷん!とか思っていたんだろうか。

手塚治虫は、孤軍奮闘していた。新しい表現を実現する人は、いつだって異端者だ。

でも、異端者を排除する社会は、豊穣さとは、無縁だとも思うんだ。

T.D. 

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2007年8月24日 (金)

ポスト安倍よりポスト福井

ほかの問題はさておき目下のデフレを何とかすべきであるという一点では中川秀直氏は正しかったのかも知れないのですがが、中央銀行である日銀に介入過剰な節も散見され、日銀の独立性といっても道半ばという気がしなくもない。

FRBバーナンキ議長の果断な判断で利下げに踏み切り、いきなり岩瀬を3イニング目から投入する豪腕振り。ただ、結局のところ、サブプライム問題の信用収縮のマグニチュードは未だ分からずという一点で、不安な状況は続きます。耐久力テストの様相すらあります。

さて、日銀は、当然ながら利上げはなし。おっと、最大の外貨準備高を誇る中国が利上げしちゃいました。ポールソン財務相は、根回しというか地ならししていた筈なんですけどね。信用で成り立つ経済、これはインパクト大きいかなと。今後も、バーナンキ議長の耐久力テストを見守るほかないです。

問題は、福井総裁の後任ですね。財務省出身の武藤敏郎副総裁を民主党が忌避しているとすれば、もう一人の副総裁・岩田一政氏の大抜擢もあるかも知れません。それはそれで魅力があるような気もしますが…まずはデフレをどうにか…。

T.D.

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2007年8月18日 (土)

『いつまでもデブと思うなよ』

衝撃といってよい。「あの」岡田斗司夫氏のことなのですが、怪作「『世界征服』は可能か?」を出版した際に目にしたふと目にした動画ファイルが、明らかに、私の知る岡田斗司夫氏ではなかったのです。

そう、同姓同名の別人かと思えるほどに、痩せていた。これは一体何が起こったのか、私はこの事態に対する処し方を知らない、人は想像を超える知覚には言葉を失うものだとまざまざと不意打ちをされたのだと自分を納得させつつ、どこかでニュー岡田斗司夫さんを拒絶するでもなくごく自然なものとして認知し得ない錯誤に陥ったというほかのない状態になっていたのだろうと、今になって、やっと得心がいった、と私は思おうとしている、と自己説得するに足る書を手にしています。

そう、それが『いつまでもデブと思うなよ』です。新聞広告等でご覧になっているかとは思いますが、確かに大幅なダイエットに岡田斗司夫さんは成功したようです。それも50kg!117kg→67kgとは!!!

しかし、岡田節は冴えており、説得的かつ、2007年の日本社会で生きることに関する啓蒙書でもあり、ダイエット本としての切り口も鋭利です。

「学歴重視の時代は終わった、これからは見た目重視時代だ」との言葉がオタキング・岡田斗司夫さんによって刻まれるとは・・・一億層中流社会から希望格差社会へ、横並びから格差へ、未曾有の体験をしている日本人に向けて、明示的かつ確かな視点を示すものであり、それを、徒に不安を煽るでもなく、闇雲に癒しに走るでもなく、ひとつの処し方を「デブで得をすることは何もない」という、悲壮感でも諦観でもなく、かつダイエットする自分を体験できる稀有な書といえます。

これは凡百の脳トレなりコミュニケーションスキルなり資産運用を凌ぐ、「確かな事実」のあっけない提示であり、オタクというライフスタイルのあり方に対しても、それが社会化されていく過程における、体験の書、告白の書であり、それが岡田斗司夫さんによって成し遂げられてしまったという事態に、私は、ただただ呆然とするほかないのです。良書です。

T.D.

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2007年7月12日 (木)

『心の社会』

『心の社会』-「あの」AI(人工知能)の父、マーヴィン・ミンスキーによって認知のメカニズムが語られた書。

もはやレジェンドになったダートマス会議(1956年)、ミンスキーのほか、ジョン・マッカーシークロード・シャノンノーム・チョムスキージェローム・ブルーナーら当時の人工知能/認知科学研究のフロントランナーが結集。まさにミンスキーは時代の子であったといえます。

ダートマス会議の後、ミンスキーはあのMIT人工知能研究所ではシーモア・パパートらと領域を拡大し続けた、巨人でもあります。

本書では、その成果の一つ、「心」の機序について、語られます。

ミンスキーは、心をモジュールの集積に見立てます。任意のふとした動作も、膨大な工数の行為からを流れるように自然にこなししまうのは、その作業に最適化されたモジュール(=エージェント)が適切に階層化されて機能されているためであると。結果として、心はごく自然に「それ」をこなすのです。ここまでなら、デカルト的要素還元の世界ですが...。

ミンスキー理論の白眉はここからで、エージェントは一定の法則性によって動くのではなく、あたかもヒトが構成する社会のように、相互作用が絶え間なく繰り返されている、と捉える点にあります。文字通り、エージェント間の交渉で相互作用は決定されるのです。

そして、その相互作用の中から仮設物としての「自己」がたち現れるのだと。

とりわけ興味深いのは、割り込み、でしょうか。一つのことを考えていても、それを中断して瞬時にスイッチを入れ替え、用を足したら、もとの考えごとに戻る、といったように。

割り込み理論で説明ができるのは、ある思考の流れの最中にも、それを観察しているエージェントの回路もあり、その相互作用が、こうしたことを可能にするのだと。「代名詞」の存在は「割り込み」に由来するとの仮説も提示され、興味の尽きないところです。

確かに、外国語を喋るときと、母語を話すときとでは、パーソナリティにも変容があるように感じることはしばしばあり、これがミンスキーの「割り込み」を体感する瞬間でもあります。心は、割れたところからも生起している...この他にもカテドラルのように構成されるミンスキーの心をめぐる言説には興趣が尽きません。

これがもう20年近く前の書であるとは!fMRIの実用などで、脳科学神経経済学にも大きな進展があると予想されていますが、ミンスキーがAI研究で切り込んだ知見は、認知科学の可能性をひらいていたのだと、改めて唸らせれる一冊でもあります。

T.D.

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2007年7月 1日 (日)

『歴史とは何か』

ケンブリッジで行われたE.H.カーの、歴史的講演録、『歴史とは何か』歴史学のエレメント。

古典中の古典、定番中の定番だけに、かなり以前に一読したままになっていました。

アクトン、ヘーゲル、マルクスはもとよりパーソンズマンハイム、トクヴィル、ホパー、サルトル、ドラッカー、フロイトまでフォローし吟味するE.H.カーの、学際的良心に溢れる書だったことを今更のように再発見することとなった次第です。

E.H.カーは語ります。「現在と過去との尽きることのない対話」「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程」のだと。歴史とは、まず選択であり、かつ歴史家の哲学思想が色濃く反映された物語化による解釈であると、語ります。

現在的問題意識・視点と密接に関係せざるを得ない。客観性のある歴史的真理は存在しないという懐疑主義、もしくはどの解釈にも優劣なしとの相対主義、何れをもE.H.カーは棄却する。これは、近代歴史学の超克であり、現代歴史学を拓くものです、以下のように-。

E.H.カーは歴史に客観性を与えるもの、それは、歴史家の未来および目的へのヴィジョンだと断ずる。未来のみが、過去を解釈する客観性を担保することが可能であるから。

ここに客観性とは、事実と解釈の間にたいして、また過去と現在と未来との間にたいして、重要性の正当な基準を用いることを指す。

ゆえに、歴史とは「過去の諸事件と、次第にあらわれてくる未来の諸目的との間の対話である」。これがE.H.カー、希代の名講義の真骨頂かと思慮します。

T.D.

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2007年6月30日 (土)

『科学哲学の冒険』

科学哲学は、分析哲学の一角を占める、英米哲学の高峰。反証可能性を挙げたカール・ポパー、実際のところは科学者の属するパラダイムに決定されているとするトーマス・クーン。クーンに対抗する主流派とクーンも抱え込んだ社会構成主義。こんな図式でしょうか。

そんな科学哲学を、名大・戸田山和久教授が説きおこす本書では、「センセイ」とその研究室の学生二人の議論という形をとって、ヘンペルの「仮説-演繹」モデルから最先端の「意味論」モデルまで、科学哲学の全体像を明晰に切りとってみせてくれます。

センセイは実在論を擁護する立場、対照をなすのは社会構成主義反実在論相対主義、大雑把にいうならポスト・モダニズム。センセイの論理は着実で、衒いがない。難をいえば、ちょっと着実さを出したために、素朴に過ぎるかもしれない。

確かに「電子」は実在する、が量子力学の世界ではその理論が仮定する「存在物」だってあるではないかと。あるいは、現象として見出されるものとか。この辺は、科学哲学の主戦場になっていそうに思った。何れにせよ力作であるので、著者の自作を楽しみに待ちたいと思います。

T.D.

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2007年6月29日 (金)

スピノザを読む

今、古典と戯れています、というよりも、新刊書にちょっと食傷気味のところがあるのかもしれません。さて、そんなときにはスピノザです。彼以外にいない。

『エティカ(エチカ)』はそのままユークリッド『原論』みたいですが、慣れればどうってことはありません。スピノザが「…ということにしておこう。」と定理してしまっているので、それにそって幾何学模様に遊ぶだけです。

そう。読む方が気にしたって仕方ありません。そういうことにしておけ。気にするな。そして、ぐいぐいと読み進みます。

一元的汎神論といわれたらやはりこの一冊でしょう。猛烈なカタルシスもあります。

最近、「本を読んだ」という読書経験の質が低下気味に思います。濫読気味なので、量は増えているのですが。そういうとき、心落ち着くのは、こういった書物たちだったりします。

T.D.

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2007年6月28日 (木)

フジモリ氏、国民新党から参院選出馬

本当に出馬ですか、ペルー元大統領のアルベルト・フジモリ氏。チリで軟禁中(?)のフジモリ氏は、各種容疑でペルーへの身柄引き渡しが時間の問題で、日本の被選挙権も有るため、軟禁状態でも立候補、選挙運動には問題ないとのことですが。Photo_15

南米は、メルコスールで統合の機運が高まっていますが、米国からの何らかの要請でもあったのか、それにしても何故に国民新党なのかが微妙です。比例で出るとしても当落自体が微妙ですから...。

T.D.

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